発する言葉

自分の発する言葉が

必ずしも相手に思い通りに伝わるわけではない

一つの発言に対して、肯定的にも、否定的にも、とる人はいるし

そもそもその発言を自分に向けられたことさえ疎ましく感じる人もいる


では人に対して話し方を変えることが必要なのか、というとそういう技術的な話ではなく

自分の発する言葉で周りの人は変わるのではないかと思うのだ


自分が発する言葉を肯定的、もしくは自分と似た感性で受け取ってくれる相手とはいろんなものを共有しやすい


価値観がにているために、言葉に対する誤解も少ない


では逆に、今いる環境から変わりたい時は言葉を変えてみるのも一つの手ではないだろうか?


いつも使っている言葉を少し違った言い回しをしてみる、タイミングを変えてみるだけでも変わるのではないか?


ただ、


どう変えたいのか。


そこは考えておく必要があると思う

ただ闇雲に変化を求めているだけなら、ただ変えるだけでもいいだろうが

あの楽しそうな人たち、憧れている人などが使っている言葉を真似してみる

それは相手の価値観に寄せていくことでもある

自分が素敵だと思う相手はどんなタイミングで、どんな言葉で感情を表しているのか

それを意識するだけでも大きく変わる




そしてその変化が違和感なく自分の中に取り込まれた時

周りの人はきっと自分の素敵だと思える相手と同じような人が集まっているはずなのだ。

摩擦の乗り越え方

歩くとき、

目線の高さより少し上を遠くを見ながら

身体の芯をぶらつかせずにまっすぐ歩く


足は内臓から何から腹筋で持ち上げた感覚のまま、軽やかに

そうやって歩くと、たとえ周りの歩く速度と違っても

不思議とひとは道を開けてくれる

足下や身近なところに視線を置いて

セカセカと歩くときほど人の波に巻き込まれて

ぶつかる人が多くなる

それはきっと全てに通じること

35までにしておきたいこと

最近自分の周りで40を前に

今までの人生を振り返り

病む人が増えた


病むまでに行かなくても

落ち込みが続いたり、そもそもの自分について考え直す人が増えた

そういう人に多いのが


腹をくくる経験を持たなかった人だ。


腹をくくって、自分を受け入れて

苦いところも、ダサいところも、人としてやばいんじゃないかって部分さえも

自分なのだと向き合った人は

振り返る人生はあっても、そこに落ち込むことはない。

というか落ち込んだとしても長引かない。

良くも悪くも甘えられる場所甘えられる人を渡り歩いても来た人は

自分の人生の舵取りをその場しのぎの甘い言葉で判断を鈍らせ、

誰かの言葉に責任を任せてきた人生が、自分の人生だったことに

参加資格がなくなったことが増えた時に、こんなはずではなかったと

落ち込むのである


でも、今からでも遅くはない

ダメージも、傷も見過ごしてきた期間分深くも大きくもなっても、

今からでも向き合う覚悟を持つことはその先にまだ続く人生に於いて無駄じゃないと思う

忙しい中でいかに複数の物差しが保てるか

仕事が忙しくなると必然的に決断を早くするように迫られる

早い決断は当然ながら、確定された一つのセオリーに基づいて判断する方が早くできる

そのために、いかに早く決断した後も、決断が正しかったと思えるか、基準を見直しながら精査していくけれど、

忙しければ忙しいほど、判断基準は一つに絞られていくことに気づかない

複数のものの見方を持った物差しで測れば、見えなかったことが見える場合がある

今、自分は判断基準が一つしかないと気づいているだろうか?


子供が欲しいからいつまでに結婚したい

お金に苦労したくないからお金持ちと結婚したい

など、何かをなすときの判断基準が一つしか持っていないようでは

結婚した後、その人の他の魅力に気づけるだろうか?


心のままに動くこと

頭のいい人ほど、気づかぬうちに頭で恋愛してしまう

恋に落ちたあと、現実問題とすり合わせている自分に気づかず

適当な理由をつけては別れを選んだりする

まだ教育に心の勉強がない今は、心の勉強は実地で行うしかないから

全てが「常識」に収まるわけもなく、また常識すら時代に寄って変わってしまうのだから、

自分がいかに自分の気持ちに腹がくくれるか

長い時間がかかったとしても、自分が悩み迷った上で出した決断を尊重してもいいはず。

ただ、万人に受け入れられやすい答えを選んだとしても

親に認められやすい答えだとしても

自分の心が、今感じていることを選んだとしても

きっとどれも反対も賛成もされるから、

今の自分の答えがこれなんだと自分で認めるだけでいい

ポトフォーリオを見直す

最近株の勉強を始めた。

まだまだわからないことだらけだけれど、一番興味がある長期投資。その中でも投資信託が気になり、その中で知ったポトフォーリオという言葉。

投資信託の株の保有率を円グラフのようにして、割合をその都度見直していく、その過程は、人の気持ちの整理にもつながるのではないかとふと思った。

友人関係は特に、大きく変わる時期があるといわれている。

学生時代から社会人となり、収入や働き方が大きく変わった時。

結婚した時。

子供を持った時。

など、人生の中で大きなイベントは学生時代のように揃って成人式を迎えるのとはわけが違う。

だから大きく価値観が変わった時には友人関係が変わるといわれているわけだが、

それは、ポトフォーリオの比率を変えるだけだと思えるかどうかが大事だと思うのだ。


今まで一緒にいた親友が離れてねいくような寂しさや、

子供との時間が多くて社会と切り離された感覚。

二次会には行かず、盛り上がる途中で家に帰るふと不自由さなどは、今ただこの瞬間大事にしたいものの比率が今までと変わっただけなのだ。

今後続くのか、それともそのまま比率は限りなく少なくなっていくのかは誰にもわからない。

でも、今その時なのだなという気持ちだけを持っていれば、不要なまでに不安視したり、疎外感を感じる必要もないことが見えてくるのではないだろうか?

今、自分が選んだ自分の価値観は今結果をもたらすものではない。

だからこそ、何が大切で何をしたいのかは常に選択する準備はしておかなくてはいけないと思った。

長期で株を持っても誰も結果はわからない。

でも、動いて見なければ結果を見ることもない。

その動くという選択は自分しかできないのだ。

恋がなくても幸せ?

もちろんそういう方もいらっしゃるでしょう

恋愛経験から深く傷ついてしまい
もう恋愛以外で幸せになろうという方

そもそも恋愛にご縁がなく、今のままで十分という方

いろんな方がいると思います

出来ることなら片思いでもいいので
恋愛をしてほしい


誰かを愛することの尊さはわざわざいう必要もないくらい世の中にいろんな言葉で表されているからここではわざわざ書きません

でも誰かを好きになるのは自分が好きじゃないとできないのです

こんな私に好きになられてもきっと迷惑だと感じている自分がいたらとても人のことは好きになれないから

自分を認めて、自分の感情も認めて、その上で初めて恋が始まります

実る実らない以前に自分を認めたうえでの感情だとわかっていれば

必要以上に相手を求めることも
相手の反応を鵜呑みにして自分を見失うこともない

恋はいろんな自分を知ることができます

かわいい自分も
強い自分も
弱い自分も
卑怯な自分も
単純な自分も
もどかしいほど子供っぽい自分も

どれも自分で 

どれも愛おしくなれるから