自分の気持ちの受け入れ方

私はあまり人に自分の気持ちを話さない。

 

誰彼かまわず20代は話をしたけれど、わかってもらえないという思いがあったのと

これを話したら嫌われるかもしれないという気持ちを自覚し始めたから。

 

自分の気持ちを自分で否定して、誰かに受け止めてもらえた時は

嬉しいし、自己肯定感が高まる。

でも、受け止めてほしい気持ちはどんどん生まれてきて、そのすべてを

他人が受け止めきれるわけもない。

 

かといって、話さずに隠し続けたその気持ちはいつしか大きな穴となり、

自分を認めてくれる相手の前にいると「それは私のすべてではないよ」と

言いたくなる。

「すべてではない」とわかっているからといって、

どこまでが「すべて」なのかといわれるとわからない。

 

ただ大きな穴を埋めたいけど埋められないという気持ちだけが

自分は欠落している人間じゃないかという思いと直結していった。

 

そんな時、私の中の虚無感を少しずつ認めるためにやったことがある。

 

それは

 

「包み隠さず書きなぐるノートを作ること」

 

今の人はSNSなんかに投稿するのかもしれないけれど、

が勧めたいのはそういう第三者を意識しない、ただそこに吐き出すためだけの

ノートを作るということ。

 

読み返したっていいし、もちろん読み返さなくたっていい。

 

ただ書きなぐる。

 

本当はどうしたい?

どういう言葉を言えたらすっきりした?

どんな風に声をかけてほしかった?

 

と一人二役するのである。

 

小さな子供の自分のわがままをただただ聞いてあげる大人の自分を作り

子供の自分の叫びを文字にし、消化する。

 

ただ書いただけで誰に何かを求めるでもない。

 

ただ、自分だけが自分が本当は求めたかったけれど封印してしまった気持ちを

掘り起こす。

 

本当の私は甘えん坊で、我儘で、やってほしいくせに過度な干渉はされたくない。

 

そういう見たくない自分を見てあげる。そして「そうなんだ」と受け止めるのだ。

 

受け止めることを意識しなくても、書いているうちになんだかすっきりしてくる。

 

私はこうしてほしかった。。。でもあの態度じゃ相手もあぁいうしかなかったよな。

私はこうしたかったのに・・・でもあの時はあれがベストだと思ったんだもんな。

 

そう思えてくると大きな内側にあいた穴がいつの間にかなくなっていく。

 

次、こういうことがあったらこれは言えなくてもここまでは伝えてみよう、とか

こういう思いは二度としたくないからこういう状況になる前に、話からおりるようにしようとか、

冷静になってくる。

 

そうやって自分を受け入れていくのである。

 

どんな自分も、その自分からしか世界は見えないのだから、

その自分を受け入れていかにフラットな目で世界が見えるようになるのか、

その過程を楽しんでいくこと、それが生きていくことの楽しみだと思う。