試練は気づき、オトナの成長は自分でやると決めてやり遂げること

若い頃は嫌なことや怒られることが勉強の時期だったりする

いろんな人がいろんなことを教えてくれるし、
自分の言動に反応されたことを他の人が解説してくれたりもする

でも、ある時期から教えてくれる人がどんどんと減ってくる

その分自分の知らないところで自分の評価を下されるという、自分の言動に責任を取る状況にいつの間にかおいやられる

いつの間にかオトナになった自分に対し、どうやってその後成長させるのか

きっとそれは人の反応という気づきから、解説を得て自分の中に落とし込むのではなく

自分の中から、どういう人で在りたいのかというあり方を決め、決めたことを一つずつ実行に移すことではないだろうか

今のままでいいというわけではない限り、自分の理想はあるはずだ

その理想をいかに一つずつ小さな目標に変え、自分に落とし込んでいくか

それがオトナの成長の仕方ではないだろうか

断捨離

最近では断捨離は一つのキーワードとして、いろんなところで見かける。

単純に部屋を片付けるという目的から、運気を上げる目的まで、様々な目的に断捨離は有効のように見える。

確かに物を減らせば選択肢が減る。
しかも選択肢自体が自分の好みを最優先して選ばれたものである、その中きら今日の気分や体調なんかでさらに選ぶのだから悩む行為自体がワクワクして

迷うというよりは選ぶという感覚の方が強くなる。

断捨離をするときに、まず不要な物を捨てるという行為があるが、それはつまりそのもの一つ一つを丁寧に見ていき、何が必要で何が必要ではないのかを見極めるということである。


恋愛に置いても同じこと。

デートの約束を仕事のせいでキャンセルされた、そのことについて相手に文句を言ったら喧嘩になった、などよくあると思う。

楽しみにしていた予定が、土壇場でキャンセルされればそのショックは大きい。

ただ、その時に何もかもを相手にぶつけるのではなく、自分の気持ちをまず断捨離して欲しいのである。


自分の気持ちを断捨離する、すなわち本心を見つけ、不要な思いを捨てるということである。

キャンセルされた直後、怒り、悲しみ、無力感、自身の喪失などネガティヴな感情に支配されたり、それを怒りのエネルギーで押さえ込んだり、人は思いの外本心の周りにいろんな感情が渦巻いている。

でも、そこをよく見て欲しい。

キャンセルされて腹立たしいのは

  • 一緒に行きたかった「場所」に行けなかったせいなのか
  • 普段持てない「一緒にいる時間を持ちたい」からなのか
  • それともキャンセルするという行為から「ないがしろにされている」と感じたからなのか

行きたかった場所の場合、期間限定で次は見れないかもしれなかったり、なかなかいけない場所だった場合、残念だが相手と一緒に行けなくても「その場所に行く」ということはできる方法があるかもしれない

もちろん、一緒に行かなきゃ意味がないと感じる場合もあるだろう。

でも、何度も何度も本当に一緒に行きたいのか、それとも「一緒に行くべきでしょ」という思い込みだけで自分の悲しみを助長していないか考えてみて欲しい。

一緒にいる時間が欲しいのであれば、キャンセルされてどんな気持ちになったのかを伝えることはもちろん大事。
わたしは今日を本当に楽しみしていたからすごく寂しかったと話した後、二人の時間を取れる日を改めて決めるのか、電話で話したり、5分でも会うということをすることで、自分の本当の望みを叶えることはできる。

ないがしろにされているように感じたのであれば、きっと今回のキャンセル以前にもそういったあなたが少し我慢したことが何度か繰り返されていた恐れがある。
相手が甘えているのか、たまたまそう思ってしまう状態だったのか、はたまた自分自身が相手以外の関係で我慢を強いられ、相手だけには同じことをされたくないと思っていた何てこともあるだろう。

その時はあなた自身があなたを大切に扱うことが一歩である。

自分を大切に扱うことから始めていけば、自分か求めていることにも敏感になる。


そうやって恋愛にも断捨離は必要だと思う。

思いやりの正体

あなたのためを思って

喜んでほしいからやったのに

何もわかってない


人は人にこうあってほしいと思うこと

自然と湧き上がるものだとは思うけれど

思いやりって、相手の承認がないと成立しないだろうか?

付き合いが浅いときは相手の真意や、思考の癖には気づきにくい

その自分が相手を思いやった上での行動であるという自覚はどれくらいあったんだろう?

付き合いが長くなって、相手自身が気付いていない傷や、望みを思いやった上での行動が

どれだけ相手の未来を思った自分の行動であることをわかっているだろう?

思いを送るのは相手であっても、

思いを送る行動を決め、動いたのは自分


自分がやると決めたこと


という意識を、どんな時にも認識していれば

どんな思いやりも、例え相手の望む形でなくても、受け取られなかったとしても、

相手のせいで傷つくことなんてないはずである。

全ては自分で選んだこと。

思いやりたいと思った自分のための行動。

神様にさえ八つ当たりするのだから

新年、あけましておめでとうございます。

昔、タクシーの運転手さんに

初詣にきちんといっているなら、悩みは神様に預けてあとはお任せしておけばいいと言われ、

すごく素敵な考え方だなと納得したことを思い出していました。

その神様にさえ、人は八つ当たりをします。

尊い存在である相手でさえ、八つ当たりをして、

ついてないだの、こんなはずじゃないだの、と文句を言いたくなるのが人なので

人と人との関わりにならなおのこと

思い通りにいかないこともある。

どんなに理想を思い描いても、相手はその通りに動かないことの方が多いし

動かそうとして、色んなテクニックを駆使していくうちに


なんでここまでやる必要があるのか?という疑問も湧いてくる。


出来事に満足するかしないか、決めるのは自分。

自分と相手をうまく切り離して、それでもなお一緒に入れたらいい関係かなと思う。

相手は相手、自分は自分。

でも、一緒にいたいからいる。

自分が相手と一緒にいたいと決めたから、いる。


それだけでいいんじゃないかと思う。


年の瀬に感じること

2014年も残りわずか。

一年を振り返って、出会い、別れ、変わらない絆、いろんなことを感じていることでしょう。


ただ一つ、言えることは
どんな一年であっても、自分が選択したことだと納得していれば、その結果にも納得できるということ。

万事塞翁が馬なんて言葉もあるけれど、どんなこともそれだけを見ればいい悪いなんて判断がつかないかもしれない。

長く見ればあれでよかった、これが悪かったと出てくるかもしれない。

でも、
その判断はあの時できるベストを尽くしたものだったと納得できれば、

きっとどんなことも受け止めて前に進めるのだと思う。


今年、そういう意識が持てた人も、

まだまだ自分の気持ちと現状との差に苦しんでいる人も、

一つずつ始めればいいと思う。

今みでの自分に感謝して、よく頑張ったねと労って、次の自分が進むための糧にする時間になればいい。


どんな一年でも、素晴らしい経験を受け止めた自分にありがとう。


冷熱と情熱のあいだ

年末が近づくと、条件反射的にこの一年を振り返るのだけれど、

もっと思い切ってここ数年を振り返ると、できなかったことをそれでもこっちになりたいともがいたり、たまに途中で挫折したりしながらやってきたことが

ようやく形になり、いつの間にやら自然とできるようになっている自分に気づく。

今、会いたいこの気持ちを満たしてくれることが愛でしょ?

とか

こんなに寂しい思いをさせるあなたが悪いんじゃない!

とか

今まで人一倍、友達も引くくらいやってみて、相手をただ愛したいだけなのになんでこうなるの?何が悪いの?愛してるから言ってるだけなのになんで悪いことになるの?

って思ってた私が、数年挫折してはやっぱりダメなんだ、重い女は変わらないんだと落ち込んだ私が

今や自分と相手が望む時間の過ごし方に対して、自然に話し合い、素直にそれを受け入れることができるようになっている

もちろん、それは何度も何度も途中でブチ切れたり、なんで私がここまでやんなきゃいけないのよと逆ギレしたりしながらも歩み続けたからだけど、

この人から愛されたいから、自分を誇れる自分になりたいになり、今は自分は自分だと思えてる。

だから、相手のためにしてあげたいことと、今やりたいことを「冷静」に見ることができるし、「情熱」的なまでに相手を思っているからこそ、本来辛いことであっても、逃げずに立ち止まれる。


やっとここまで来たんだなぁって気持ちと


きっと悩んでる頃の私が、悩みながら挫折しながらも自分を信じて何度もトライアンドエラーを繰り返し自分の道を決めたからなんだと思う。


もし、今、自分の情熱を持て余す人がいて、

もし、今、相手のために冷静になるべきだと自分の気持ちを抑え込もうとしているなら、


それは逆だから、と教えてあげたい。

情熱の先にちゃんと冷静もある。
情熱と冷静を両方持てる。


自分で制御できないくらい情熱的なあなたならできる。



あなたを信じて進んで欲しい。

情熱的なあなただからできる、到達できる場所があることを知ってほしい。


その道、



間違ってなんかないよ。


与えること

二人の関係というのは、相手と自分しかいない。
当たり前だけど、目の前の相手に一喜一憂するし、喜怒哀楽すべてを感じる。

でも、感情を与えることもあるということはあまり意識していない。

自分に相手も同じように感情を抱き、喜怒哀楽を感じているはずだ。

でも気にも留めないところで感じられてもわからない。
そこの食い違いで、素敵な勘違いが怒ったり、誤解から喧嘩に発展したりすることもある。

自分は自分だから。

それもいいかもしれないけど、もし自発的に相手に喜びを与えられるとしたら?

それは自分にとってもまた素晴らしい出来事である。

相手が自分といることで嬉しいと感じたり楽しいと感じたりする。
そんな相手の反応を見ればやはり自分も同じように嬉しく楽しい気持ちになる。

機嫌がいい時は比較的やりやすいし、やることになんのハードルも感じないけれど、本当は相手に怒りを感じたとき、相手にこれ以上やらないといけないの?という時ほど与えてみてほしい。


これ以上無理、を、超えることでリミッターを外し、器が大きくなる。
器が大きくなれば自然と中身は埋まるように動いていく。

小銭入れには、どんなに入れても紙幣を折りたたんでもきっと10万も入らない。

でも大きくしたお財布には、紙幣もカードも、免許証だって入ってしまう。


そうやって自分の心も大きくするために、もう限界という時にあえて「与える」ことをしてほしい。

間違わないで欲しいのは、与えるであって奪われるではないこと。

この違いがかなり大きい。